日記

つらつら書きます

【ざっくり感想】ゴジラ

この間地上波でやっていたゴジラを某友人と一緒に見ました。絶対見れないと思ってたので感謝しかない。で、最初は糞映画かな?と思っていたんだけど後々考えてみればという感じで色々感想が零れ落ちてきたのでブログに纏めることにしました。うろ覚えの内容と、なんとなくこうじゃん?と思ったことを集めたことのなので真実か妄想かの混同は許してください。

 

ゴジラのストーリーの全体の感想は、すごいチープだな。って感じ

多分最初にちょっと漢字が多く出てきたとか、内容自体にそんなに重みがなかったのに言葉の選び方が複雑で見かけ倒し感がすごかったのと、たしかにすごい舞台を使っていたしお金かかってるなぁと思っていたけど正直キングコブラとか、シャークネードとかそういうのを想起させた。そういうのはB級映画として最高に面白いのかもしれないが、ゴジラは期待して見ただけがっかりした。あとは、アメリカ海外がよく出てくるのに、実際配置されている俳優が日本人だったこととか。官僚が無能なのはすごく良い(B級映画感)結局ゴジラがなんで生まれたのかとか、ふれてなかったようなきがする(見逃したのかな?)

あとはなんで新都市が埼玉なのか(さいたま)

 

思ったのは、エヴァがあまりにも演出としてうますぎてエヴァを思い出しながら考えたけど(エヴァはにわかです)あのアニメ映画は音楽と、動と静がうまくアニメ全体を整えて印象に残していったと思うんだけどゴジラ自体は展開が激しく進んでいく割に、それらを印象づけるところがなかなかなかったこと。もしかして最後の、日常が進んでいくところかな?

あれがアニメ特有の表現なのかなぁとちょっと思った。さらに言うと小説は割りと動の描写が得意だったりするけど、漫画は静の描写が得意なんだよなぁ。ドラマはもしかすると、小説よりの表現が多いから動くとかストーリーを重視してゴジラも他の作品と同じような出来上がりになったのかもしれない。ちょっとだけ庵野秀明監督がアニメ作品で有名になった人だったから、ドラマの表現ももっと革新的というか、ぶち抜いたものにしてくれるのではないかと期待を抱いてたのかもなぁと思った。これから先、映像も同じ表現ができないわけがないので、ぜひとも新しい作品にはその革新的なところを貫いてほしいと思っている。

 

ここまでボロクソにいったけど、ツイッターでみたように災害にあった人間やそれを目の当たりにした私達にはゴジラの災害後になんとはなしに日本が元通りになっていったりそうではないとかそういうのは慣れ親しんだことなのかなと思った。

いい意味で世俗的なストーリーで、与える印象は確かにでかい。ゴジラが戦後の作品だったからっていうポイント(?)もしっかり捉えていて、今私達がもう一度それを感じられたっていうのも大きいのかもしれない。こうやってみんながゴジラの話をして、すごいねとかあああれはとか話す事自体が、なんとなく時代の再生というか、あの時代も同じようにゴジラをみんな友人や子供がみて、感想を言い合ったのかなと思うと少ししみじみするし、ゴジラの映画は十分役割を担ったのではないかなぁとも思える。

そもそもゴジラはそこまで人の心にぐさっと刺さってトラウマを植え付けるような作品ではないので、あれぐらいのインパクトと話題性があって、ワイワイ見れて解釈の余地もあるみたいな、そういうのがすごく良かった。まとめると中毒性があって、今自分で考えていたことを確認するためにもう一度見たいと思っている。

ああもう一度みたい、あの映画。って思える映画なかなかなかったので相当あたりなのかもしれない

【映画感想】She's out of my league

懲りずにアマプラから見た映画をレビューします。

 

She's out of my leagueは邦題ある日モテキがやってきたとかいうB級感の漂うタイトルなんだけど、ちょっとモテ期とは程遠い自尊心が欠けた男の話。もうぜひとも現代の人間全員に見てほしいみたいな気持ち、それぐらいぐさっと来る人は多いんじゃないかと思います。

主人公は保安検査員で彼女と別れたばっかのモテない金がないで大卒もないみたいただ今は飛行機を運転したい夢を持っている三重苦の男、とにかく自分に自信がない。でも何より兄弟や友達の仲を大事にしてるし、そいつらがなんやかんやで恋の足を引っ張り合う。なんか見たことある。東京タラレバ娘かな

対してモーリーは見た目も完璧でかわいくて素晴らしい女の子で、海外を飛び回ったりしてるエリート一家のエリートとにかくひと目を引くような人。元カレもエリート街道まっしぐらのパイロットで未だにもーりーに未練がある。みたいなよくある恋愛モノで、よくある設定なのかな?って感じですね。少女向け映画とか恋愛映画だと、たまにこの逆バージョンを見ることがあるかな…

ここからはネタバレ含みます

 

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リストカットと他人から傷付けられることの関係

大仰なタイトルを付けたけど、なんだろうって考えたとき最終的にたどり着くのは結局自分のからだとその外部とのつながりをコントロールできるかってことだと思うんだよね。
さすがのメンヘラだって誰かから突然切りつけられれば痛いと思うし多分なんで?とも思う。
それはメンヘラだからとかではなく人間の普遍的な普通の感情であって、普段自分で切ってるんだからいいだろうって話にはならない。でもそこを勘違いする人間はたくさんいて、自分で好きなときに腕を切るんだからいつ誰がお前の体のどこを切ったっていいだろうって思ってる人間はたくさんいる。
それがリストカットじゃなくても、自虐でもなんでも自分で自分を切りつける人間に対して、自分で切ってるんだから俺だってお前を切ることができるだろうって思う人間は本当に少なくない。

 

メンヘラが他人から傷つけられて、イラッと来るのではなくてなんでなんで?って思ってしまうのは周りからのそういう干渉に沿った(そういう人たちから受け取る)素直な感情なんじゃないかなって時たま思う。
異常に心が周りの人間に従順だから、「あなたはメンヘラで自分で腕を切るのだから、私が傷つけてもいい」っていう謎理論をぶつけられて、それを「そうなのかもしれない」って思ってる。
なぜかそこに疑いを持てない、自分に自信がないし何度も自分は間違っているって突きつけられた人間だから。
実は自分を傷つけることで、隙が生まれて傷つけられるんじゃなくてその「そうなのかもしれない」というところに隙が生まれる。そしてそこが付け込まれるっていうことなんじゃないかな。

そもそもなぜ腕を切るのかっていうのは、色々な解釈がなされるインターネット上に新しい話を持ち込む必要なんてないんだけど、最初に述べたように心の痛みとかなんか辛いなって思ったときにそれが現実的に痛いかどうかを判断する基準が「切る」っていう行為なんじゃないかと思う。
ナイフやカッターで切る→火を見るより痛いことは明らか→ああ痛い杉笑うわ 
みたいな気持ち。もしも、毎日つらいなーなんとなく苦しいなーって思っていてもそれがつらいって証拠にはならないし、自分の中でこれは本当に辛いことなのだろうか?って蓋をしてしまう。
そこにすでに、さっきの他人の意識が無意識に自分の中にすり込まれている。分かる人はそれを見て、あもしかしてこの人は他人がそう思ったことを「そうなのかもしれない」って思う人間なのかな?ってバレてしまう。
わかりにくい書き方しかできないけど、つまり
心の痛みは他人にわからない→だからその痛みは存在していないのかもしれない(その判断は自分ではできない)→存在する痛みで代入する→やっと切った場所が痛い
っていうのが、加害者や普通の人間には
リストカットをしないと痛みを具現化できない→この人は自分の中で物事を考える力がないのでは?→加害したところでそれを自分(第三者)が加害と認めない限り加害にはならない
っていう状態が生まれる。


そもそも日本の社会に漂う、被害者に対するバッシング的なものが強すぎるせいで被害者が被害者と自認できずにこのループに陥ることはリスカメンヘラ云々より多いと思う。

しかも怒りって言う者とか、お前はひどいって決めつけられるような感情は自分の中にも他人にもわかってもらえるような状態じゃないといけないって思ってる節がある気がする。


どうしてこんなことをするんだ!(私はこんなことをされていい人間ではない)
人を傷つけてはいけない!お前はおかしい!(私は傷つけられていい人間ではない)っていうカッコ内の前提がない限り怒れない。これがもし加害者に従順になってしまうなら、もしかしたらこれは正当な痛みなのかもしれないって思い込んでしまう。一番いけないループだ。
でも相手はこの前提を持っているから、たとえ怒ったとしても向こうもお前はそんなこと言えない!ってつっかえしてくるのかもしれない。そもそもこの関係は不健康だよね。
そしたらリストカッターはもしかしたらこの時点で、自分の腕を切るのかもしれない。そうするとなおさら言うことを聞かせようとしてリストカットするって言われるのかもしれない。
もしくは本当に言うことを聞かせようとしている場面で切るのかもしれない。でも、本来ならちゃんと言葉でそれを伝えればいいのに自分で見える形でしか周りに言えないからリストカットをするんだろう。

 

話がそれたけど、リストカットは結局のところ自分と他者の境界線が曖昧になって自分の存在がなくなってから行われるものじゃないかなって思うようになった。
もしもそれが本当なら、ちゃんと自分の中で他人が何をしたら怒るのかその真似をしなきゃいけないと思う。
どのラインで自分が怒りを感じるのかを、癖としてつけていかなきゃいけないんじゃないかと思う。
それを感じろ!っていうのはそもそもベースがないので無理な話なので、どちらかというとそれらを癖付けしていくほうが早いんじゃないかな。
って思いました。

No letting goを見て 【ネタバレ含む】

No letting goがAmazon primeにあったので、暇な時間に見てみた。

話の大まかな内容は、Wikipediaにもあるしブログで説明している方もいらっしゃるようなので、興味があれば見てみてほしい。幼い頃から双極性障害を持つ小さい男の子が主人公の、家族が崩壊していく話である(大まかすぎる)。

幸せな家庭で、どこにも綻びを感じない典型的なシリアルパケットファミリーなのに男の子が段々と気分によって学校にいけなくなる、パーティ中に体調が悪いからといいだす、出かける前に嫌な気分になる。お母さんもそれに手を焼いて、周りのママ共はわがままなんじゃない?みたいなことを言ったり、そういうことあるよね〜で終わってしまう。結構話は深刻なのにね。それで両親は精神科(かな?)に行ったりお菓子で釣ったり手を尽くすけど結局男の子のことはどうにもならない。

物語が後半に行くに連れて、だんだん成長してきた男の子が教室から逃げ出してしまったりサッカーの試合を放棄して走り去ってしまったり、お兄さんに暴言を吐いたり挙句家の中のものを壊してしまったりする。学校の先生は家のしつけの問題だというし、その子についての問題は自分たちでは対処しきれないという。仕方なく転校させたプライベートスクールでの勉強はあまりに難しすぎてついていけなくなり、両親はだんだんボロボロになって下の弟はその状態に怯えるようになって家庭は崩壊している。それでも、まだ家族は続いていてちゃんと皆集まってご飯食べてるところにアンビバレンツを感じたりする…その雰囲気すごくしんどいよね…。

この映画、ストーリーに激しく波がなくただ連綿と続いている家族の形がはっきり描かれているところが生々しくていたたまれない。男の子が突然その家族の愛によって変わることもなく、学校生活もうまくいくこともなく、よくある障害モノ映画のように友達や彼女が現れてみんな優しくなることもない。(後半ではあるが)。お兄さんは優しいし、弟さんは怯えていてお母さんは疲れ切っている。お父さんは家族と一線をおいていてこういう家族、結構いるんじゃないかな?おかあさんやお父さんがすぐに精神科に連れていき、カウンセリングを受けさせるけど全く効果がなし。期待したような効果がなくて、お母さんも疲弊してくけど薬の治療はさせたくないから遠くへ行かせる。みたいなのがストーリー。

ちなみにNo letting goは離すなとか手放すなって意味じゃないかしらん。ブログの方では手放さないでと解釈していたので、私もそっちを推します。

 

精神的に辛いことがある人や、これを見て共感したいようなご家族の方その他似たような境遇がある人には残念な(私も含め)お知らせだけど、この映画その治療過程や良くなったような救いが一切ない。最後に施設に行った男の子がちょっとだけ友達ができて終わりみたいな話だった気がする。私は途中までどうやってこの子が復活して元気に毎日を過ごしていけるのかがすごく楽しみだったので、ちょっと残念である。でも現実ってそういう感じだよね、家族がだんだん一人のほころびで崩壊していくような話。

主人公は、家族といたことが幸せだったんだろうかってずっと考えてたんだけどあの居心地の悪い家の中でずっと苦しみ続けるよりも外に出たほうが幸せなんじゃないかと思ったんだけど、本人は捨てられたみたいな感情を抱いたようで。もしかしてたくさんの試みがあの子にはちゃんと響いていたのかなって見ていて思った。お母さんも苦しみを共有したり理解してくれて、ちゃんと愛していたことは伝わっていたのかな。それでも捨てられたようなことではなかったと思うんだよね。

 

映画の感想ってちょっと苦手なのでここらで切ろうと思います…